学校に忘れ物を届けてしまう親
心配の種を堀り起こして見る
前号「部下も子供も同じこと。『心配しすぎ』が人の成長を阻害する理由」の続き。心配しすぎについて。 前号には反響があった。「心配しすぎ」は、多くの親や教師が抱える課題であるようだ。 ところで、「心配しすぎるな」と言われても、心配してしまうのが人間である。「親だから心配して当たり前だ」という声も聞こえそうである。この「〇〇だから△△して当たり前」が出た時は、要注意サインである。「当たり前」の前提を見直せというサインである。そもそも、なぜ心配しすぎてしまうのか。心配は、感情である。感情には、目的がある。願いがある。その願いを深堀りしていって、気付くことで手放すことができる。心配の種を堀り起こして見る作業が必要である。
子どもが失敗することに、一体何が心配なのか。例えば、4月に1年生となった我が子が一人で通学することになった時。心配である。迷子になるのではないか、交通事故に遭うのではないか。つまり、命が心配なのである。これはある程度、妥当な心配といえる。しかし、心配するよりも一緒に通学路を歩く練習をするなど、対策を立てる方が現実的である。心配は、準備不足によっても起こるからである。
では、子どもの忘れ物を届けることはどうか。忘れたままだと、何が心配なのか。子どもが困ることである。これは、困らせておけばよい。体操服を忘れても、命に別状はない。見学する中で自然に反省して、次に気を付けるようにすればいいことである。繰り返すようなら、声かけなどのサポートは必要であるが、毎度届けているといつまでも成長しない。
木登りはどうか。落下によるケガの心配である。これは、再三言っているが、早めに小さなケガをした方がいい。後々で大けがをする確率が低くなる。一度もまともに転んだことのない子どもが、大きくなってから一番怖いのである(肉体面だけでなく、精神面でもいえる)。
全く別の視点で、「保身」がある。つまり、周りから立派な親(あるいは立派な教師)であると見てもらいたいという思い。これは、正直、いらない。即捨てた方がいい心配である。「そうはいっても」と思うかもしれないが、誠実な教師なら、少なくとも子どもの失敗で親を責めたりはしない。たとえ言われても、「いつもすみません」と誠実に対応すればいいだけの話である(親から教師の場合にもいえる)。
まとめると、基本的に心配は「安全」のサインである。つまり、現状維持、生命維持のための本能である。
そして成長とは、安全領域から出ること。有名な脳科学者の茂木健一郎氏も言っているが、安全地帯・快適地帯(コンフォートゾーン)にいる以上、成長はない。脳は、刺激を受けないと成長しないし、安全地帯から出ないと進化しないのである。大人にも子どもにもいえることである。
心配しすぎは、子どもの成長を阻害する。心配しすぎることによって、子どもは安全地帯を出られなくなる。その心配の真の願いは、子どもに健やかに育って欲しいという願いのはずである。心配の奥深くの願いを掘り下げれば、心配を手放せること請け合いである。
もっと子どもを信じよう。自分自身も信じよう。そんな大人に見守られていたら、子どもも自信をもって生きられるようになるはずである。
引用元
https://www.mag2.com/p/news/378944
いろいろと困難なことにぶつかった時に、いろんなひらめきが出てきますので、いろいろとぶつけることが大切ですね。