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塩谷瞬が語る壮絶な幼少期のエピソード

男性芸能人
塩谷俊 スーパー戦隊シリーズのハリケンジャーではハリケンレッドとして主役を務めるほか、冒険家として世界200か国を旅するだけでなく、ボランティア活動にも従事する塩谷瞬さん。 そんな塩谷瞬さんの原動力になっているのが幼少期の話。幼少期に経験した壮絶なエピソードを、何が何でも活かしたいという気持ちで俳優を目指すきっかけとなり、結果的に夢を叶えることができました。 果たしてどのような経験をしたのか、塩谷瞬さんの壮絶な幼少期のエピソードをご紹介していきます。

母の顔も覚える間もなく、父は多忙に

塩谷俊 塩谷瞬さんは1982年に石川県で生まれましたが、幼いころに母親はいなかったため、母親の顔すら覚えていない状態。そして父親は父親でとても忙しく、なかなか家に帰ってこず、小学生の時から不登校に。しかも貧しい生活を余儀なくされており、100円のうどんを3日に1回しか食べられなかったという状況。 これは机の上に父親が置いた1,000円札で、子供ながらついついお菓子を買ってしまい、肝心のご飯まで頭が回らず。幼少期ゆえに何を食べればいいのかわからないからこその出来事であり、常に栄養失調状態だったため、時折貧血を起こして倒れると誰かがパンなどをくれるのでそれで飢えをしのいでいたそうです。 その後、父親が再婚し、学校に行く楽しさを理解するようになってからは本来の小学生としての姿に戻っていきます。しかし、父親が再婚相手と別れたことで再び父親との間がギクシャクするようになり、最終的には電子レンジやソファーが飛び交う修羅場となり、そこで父親と別れてしまいます。 ここまででも十分壮絶なエピソードですが、塩谷瞬さんにとってさらに壮絶なのは、自分で生活費を稼ぎ、幼くしてバーの店長となり、挙句、その時ためていたお金を父親に持っていかれたこと。塩谷瞬さんが怒ってしまうのも無理はありません。

15歳でバー経営の過去

塩谷俊 塩谷瞬さんにとって、幼い時から働くことは自分の命をつなぎ、生活をしていくために欠かせないことでした。そのため、新聞配達など様々なバイトをこなす一方、14歳の時からバーテンのアルバイトをしていたという塩谷瞬さん。これは当時読んだ本で、東京都知事も務めた青島幸男さんが、バーテンダーの経験が財産になっていると書いてあったため、バーテンになろうと決意。 顔立ちは大人びていたこともあり、全くバレずに売上も上がる中、ある時、当時のトップだった人物にご飯に誘われた際、正直に年齢を話したところ、当然のことながら14歳が働いていることが問題視され、追い出されてしまいます。その後1年間は日雇いのバイトをして生計を立てる中、自らを追い出したトップが頭を下げ、店長としてバーの経営を任されることに。 このすぐ後に超ビッグオーディションで敢闘賞を獲得することになりますが、その時の写真を見る限りは16歳とは思えないほど大人びていました。何がどのように転ぶかわからない運命、もしもゲームセンターで当時の彼女が応募していなかったら、今頃はどうなっていたのかはわかりません。

役者としてその経験は活かされる

塩谷瞬 超ビッグオーディションで敢闘賞になり、その後は芝居を学びつつ、一度京都に移住して再び東京に戻り、最終的にスターダストプロモーションに入ります。モデルの仕事など当時の塩谷瞬さんにとって不本意な活動をしていく中、つかんだのがスーパー戦隊シリーズの忍風戦隊ハリケンジャーのハリケンレッド。そこで好演したことで、Dr.コトー診療所などの有名ドラマに出演。 その後映画パッチギでは当時の井筒和幸監督にその素質を評価され、主役に抜擢されます。井筒流の激しい芝居指導に泣かされることもありながら、その価値をどんどん高めていき、若手俳優として最も勢いのある人物として成長。その後海外を夢見てアメリカ進出を果たすなど、その活躍はワールドワイドに。 そのすべては幼い時に経験した壮絶な体験から始まったものであり、その体験があったからこそ今の原動力につながっていると言えます。 もちろん今に至るまで順風満帆だったとはいえず、重い網膜剥離で失明も危ぶまれる状況だったこともありました。しかし、そんなことでめげる塩谷瞬さんではありません。アグレッシブに活動し、世界200か国を回る姿はバイタリティーの塊と言えます。 まだまだ40代に差し掛かったばかりで、これからさらに円熟味を増す年代になっていくことでどんな姿を見せるのか否が応でも注目せざるを得ません。